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百年、再生の我無し

40歳からの人生やり直し。

労働組合の限界(5)

労働

なんというか、宇宙人としゃべっているような心境だった。一応日本語は通じるのだろう、こちらの言っていることの内容は伝わっているが、こちらの思いはまるで伝わっていない。

あと、「約束を守る」ということが社長はできなかった。
前述の通り、カネが絡むことには一貫して「否」を言い続けていたのだが、それでも、金が絡まないことであれば、合意したり約束したり、ということもなかにはあった。「なぜ昇給ができないのか、ということに関して、社員に説明する」とか「会社の業績を社員に対して開示する」といったことだった。(これすら、普通の会社であれば当然なされているべきことなのだが。)
ところが、これらの約束を取り付けても、少しも実現される様子がない。こちらがそれについて文句を言うと、「決算が近いので忙しいから」と言を左右にして応じない。さらにひどい場合になると「あれ、そんなこと言ったかな」と前に自分が言ったことなのに(しかも、その発言を記録した議事録を読んでいるはずなのに)、まったく覚えていない、ということもあった。

おそらく、とにかくその場を取り繕って適当に言っておけばいい、後のことは知らない、と思っていたのだろう。

他にもいくつもあるのだが、本当にきりがないので、このくらいにしておこう。
とにかく、団交を重ねることによって分かり合えたり、あるいは少なくとも妥協点を見いだせるとか、そういうことは全くなく、不信感が募るばかりだった。


不信感が頂点に達したのは、ある時の団交の席上でのことだった。

あるとき、労働分配率、つまり社員に対して売り上げの何割が分配されているか、そのことが問題になったことがあった。目的はもちろん、労働分配率の向上である。

エンジニアの派遣事業の一人当たりの売り上げは、派遣先から払われる一人月あたりの単価が元になる。
我々の調べでは、一人あたりの単価を平均50万円(一時期に比べればだいぶ安くなってしまった)として、手取りベースでの労働分配率が33%、額面ベース、社会保険こみで50%、という試算結果だった。
このことを言うと、社長は色をなした。何を言っているのか、そんな数字になるわけがないだろう。そんな根拠のあやふやな数字は出さないでほしい。話をするなら明確な根拠に基づいて言ってほしい…

ああまたはじまった、と私は思った。それならば、それを逆手にとらせてもらおう。
私は言った、先に挙げた数字はあくまで試算です、われわれは確実な数字を知りようがないのだから、試算しかできないのは仕方がないですよね、数字があやふやだというなら、どうか、数字をそちらから提示してはもらえないでしょうか。

得たりとばかりに、社長は手元の紙を見て、なにやら数字を読み上げようとした。そこでさらに思ったのは「人が出した数字に『明確な根拠がない』というなら、その手元の数字の根拠は何なのか」ということだった。
私は、読み上げようとするところを遮ってさらに言った、「すみません、先ほど、労組の労働分配率の試算結果の根拠に疑いをもたれたようですが、そうすると、逆にお訊きしたいのですが、その手元の数字の根拠はなんですか。」


「それは『信頼』しかないでしょうね。」そう社長は言った。

今までの経緯を振り返れば、これほど皮肉な言葉は無かった。しかし、社長はそれを皮肉と自覚して言っているのではなさそうだった。
さらに言えば、根拠をたとえば損益計算書などを示すのではなく、「信頼」としか言えないのも語るに落ちた話だった。「根拠など何もない出鱈目です」と問わず語りに言っているのと同じだった。

さらに彼は言った。
「そんなに会社が信じられないなら、そういう人は他所に行ったほうがいい。自分が信頼できないところで働いているのは、その人にとってとても不幸なことで、人生を無駄にしていると私は思う。」

今まで団交を何度か重ねてきてはじめて、社長の発言で心の底から「ああ、そのとおりだ」と思える言葉に出会った。
まったくそのとおりだ、俺はまさに人生を無駄にしているな。

しかし、そうやって言うからには、この人は自分が信頼するに足る人間だと自分のことを思っているのだろうか。そうだとすれば、驚嘆すべき自己認識だろう。
同時に議事録も取っていたので、念のためにきいてみた。「先ほどのご発言は大変重要だと思うので、議事録に記録してもかまいませんか。」
撤回するなら今のうちだよ、という意味を込めていたのだが、その思いはやはり通じなかったようだ、返答は「誤解のないように願いたい」とだけだったから。

私の中で、心を支えていた梁のようなものが、折れた瞬間だった。

そのあとしばらくして、私は組合の執行委員を辞め、さらに、会社そのものを辞めた。


結局、まったく皮肉な話ではあるが「信頼」ということに尽きるのだった。労働者と使用者はたがいに利害が対立するのだが、そうだとしても、最低限あるレベルのところで信頼関係がないと、そもそも交渉が成立しない。
信頼関係といってもそんなに大仰な話ではない。要は、約束は守るとか、嘘はつかないとか、法は守るとか、明確なデータに基づいて議論する・できるとか、そういうことだった。

別に人格的、能力的に優れた経営者でなくても(いや、本当はそういう経営者のもとで働きたいと、労働者の多くはそう望んでいるだろうが)構わない。労働運動に対してまったく理解のないごりごりの新自由主義者のような人であってもいい。
上のような条件さえ満たしていてくれれば。

けれども、目の前のこの男には、それを期待できない、ということが、よくわかった。


団交は回を重ねてはいたが、はっきり言って泥沼化していた。あと取れる手段としては、労働委員会に調停を申し込むか、ストライキのような実力行使に出るか、というところだった。
しかし、そうなれば、さらに信頼からは遠ざかるだろう。社長はますます憎しみを燃え上がらせ、ますます組合を敵視するだろう。もちろん、組合を敵視して何かするというのは、不当労働行為と呼ばれる違法行為なのだが、法とか仁義というものを重視していないこの社長のような人間にとっては、なんでもないことに違いない。

労働組合というものが役に立たないとは思わない。ただ、それが役に立つには、経営者が最低限上のような条件を満たさなければならない、と思われた。
それがなく、また、この社長のように自らが社長であり大株主である、という場合はどうしようもない。社長を引きずり下ろすことはだれもできないのだから。
そういう場合は、こちらが「辞める」という選択肢しかない。


今はただ、そのことに気がつくのに7年という歳月を要したこと、そのために、実り多かるべき30代後半という時期をまったく無駄に過ごしてしまったこと、すんだことをどうこう言っても仕方がないが、ただそのことは悔やんでも悔やみきれないのだ。