百年、再生の我無し

40歳からの人生やり直し。

少年から大人になるということ (書評:前川麻子「劇情コモンセンス」)

劇情コモンセンス

劇情コモンセンス

 

少年少女のころに夢中になっていたものを、大きくなってから改めて見たときに「自分はこんなものに夢中になっていたのか」と意外な気持ちになる、ということは往々にしてあるだろう。
子どものころ夢中になって追いかけた、黒いダイヤとでも言うべきカブトムシは、大人になってみると何だか薄気味悪いただの虫に過ぎない。工夫を凝らした秘密のアジトは、ただの廃物利用の掘っ立て小屋に過ぎない。
ここまで極端な例でなくても、もはや、子どものころほどにはその対象に夢中にはなれない、と感じた瞬間が、一定以上の年齢の人なら多かれ少なかれ誰しもあると思う。
おそらく、「大人になる」ということはそういうことなのだ。

もちろん、大人になっても、子どものころ夢中になっていたものを追いかけ続ける人はいる。でもそうした人々も決して「子どものころの目線」そのままでそれを追いかけているわけではない。そういう人は、大人の社会特有の制約、事情を充分に了知しつつ、「それでも敢えて」その道を歩みつづけているのだろう。


この本は、いわゆる小劇場演劇の世界を題材とした小説である。
「木村座」という架空の小劇団(しかし、登場人物にはそれぞれ実在のモデルが存在する)が、公演の準備期間と稽古を経て、ひとつの公演を完成させるまでの時間の流れの中に、さまざまな人間群像を絡めた話…と、要約すればそういうストーリーだ。

学生の頃から30代前半に至るまでの期間を、実に半ちくもいいところではあったが、一応演劇の世界で過ごしてきた私の眼から見ても、この小説の人物描写や会話のディテールはあまりにリアルである。完璧、といってよい。
(作者の前川麻子自身が、かつて劇団を主宰し、女優としても活躍していたのだから当然ではあるのだが。)

何年も前に、最初この小説を読んだときは「ああ、これこれ、この感じ、懐かしいねえ」という気持ちでいっぱいだった。


「ホン上がってきて、役が足りなかったら、エチュードでなんか作らせればいいんだし、今回はやっぱり早めに情宣したいんだよ」

という符牒まみれの台詞ににやついたり、

「ええと、ただいま六時三十五分、開場二十五分前、開演五十五分前です。時間がなくて大変でしょうが、このままもう集合はかけませんので、皆さん、本番の準備に入ってください」

という舞台監督の言葉に、読んでいる自分の血が沸きたつのを感じたりした。要するに、演劇をしていたときと同じ目線で、この小説を読んでいたのである。


ところが、再読してみて、最初に読んだときとは随分自分の感じ方が違うことに、我ながら驚いている。
懐かしい、という感じるのは同じだ。けれども、もはや血の沸き立つような思いはない。
あまり正確な例えではないけれど、初恋の人の写真を何十年も経った後に見るような感じ、といえばよいだろうか。
懐かしいし、基本的にはいい思い出なのだけれど、「あの頃に戻りたい」とはもう思わないし、仮によりを戻せるとしても今更そんな気持ちはない、というところだろうか。
もちろん、この小説が変わったわけではない。変わったのは私のほうなのだ。

さきに、「さまざまな人間群像」などという紋切り型の言葉でまとめたが、演劇や劇団のことをよくは知らない普通の人がこれを読んだら、「ちょっとおかしいんじゃないか、これ」と思うようなエピソードがいっぱい出てくる。
劇団の座長には、同じ劇団の女優兼脚本家である妻がいるのだが、この妻はやはり同じ劇団の役者(しかも複数)と肉体関係を結んでいる。(しかも、この妻と不倫している役者たちは互いにそのことを知っていて、互いにデートする時間を譲り合ったりしている。)座長は座長でやはり同じ劇団の女優に手を出し、妊娠させてしまう。(自分が妊娠したことを知ったその女優が、座長の妻に対し「生んでもいいですかね」と訊く(!)、というおまけのエピソードまでついている。)
劇団の製作(公演における金の管理、資材の調達、宣伝、その他事務作業の一切を行う人のこと)は、同棲している恋人に制作費の口座の通帳を盗まれ、「きっと返してくれる」ことを信じて銀行に紛失届も出さないでいるうちに、案の定預金を全部引き出されてしまう。(そこに至ってもなお、盗難届すら出さない!)最年少の女優(女子高生)は、チケットノルマを果たすために援助交際に手を染める。
その他、いちいち書ききれないが、上ほど滅茶苦茶ではなくても「それは大人としてどうなのよ」と言いたくなるようなエピソードが随所に書かれている。

上記のエピソードを見て、読者の多くは「小説的誇張」と思うだろう。
むろん事例としてはかなり極端なものばかりだが(私も上のような話は見聞きしたことがあるだけで、自分がやったことはない)、この類の社会性、常識のなさは、この業界ならば「あってもおかしくはない」程度には受け入れられてしまう。少なくともそういう素地があることは認めざるを得ないのである。
(ただ、ひとつの劇団にここまで集中して問題があることは珍しいだろうけど。)

もちろん、作者はこういう「負の側面」ばかり書いているわけではない。(ネット上での書評で「ある種の暴露本」という評がなされていたが、決してそうではないと思う。)役者の若々しさ、純粋さ、稽古と公演にかける情熱、そうしたものもきちんと描いている。作者が今でもなお、演劇の世界に愛情と尊敬の念を抱いていることは疑い得ない。
しかしそれでも(あるいは、それ故に)、作者はこうした「光の部分」が、上記のエピソードに象徴されるような「影の部分」と分かちがたく結びついていることを言及せずにはおれない。例えば次のように。

 

演劇の人々が皆、実際の年齢より若々しく見えるのは、ひとえに貧しいからなのです。社会性のない幼稚さが若々しさに見えているだけです。


この小説が、よくある「夢を追う若者の甘酸っぱい青春物語」とは一線を画しているところは、上のような「夢を追う若者の社会性のなさ、幼稚さ」を酷薄なまで描ききっているところにある。
作者はこれについて、一切言い訳めいた説明はせず、ただ淡々とエピソードを連ねるだけである。


「少年の気持ちを持った人」という表現は、おおむね褒め言葉として使われる。「少年になっても、みずみずしい感受性を失わないでいる人」といったような感じだろう。
でも知っている人は知っている。「少年のみずみずしい感受性」は往々にして、少年特有の邪悪さ、わがまま、社会性の欠如と結びついていることを。
そして、大人になる、ということは、自分の関心事からなる世界を越えた、外の大きな社会とのつながりの中で自分の位置付けをやり直す、ということに他ならない。
それは多くの場合、つぎのようなことを明らかにする。自分とその仲間内の間だけで通用する「博識」と「独創」は、単なる「おたく」と「独善」でしかないことを。それはとても辛いことだ。でも、おそらくこの地点を乗り越えない限り、本当に「何かができる」人間にはなれない。
そのとき、思い出は「たんなる若い頃の麻疹」のようなものを越えて、今の自分を形作る素材としての意味を持つだろう。

物語の終盤で、坂上という舞台監督が、結婚を機に演劇を止めることを明らかにする。この小説の最後は、そんな坂上を見つめる「劇の神」の次のような言葉で締めくくられる。

 

違う道のりを歩き、違う場所へと向かう決意は変わりません。ですが、坂上は、彼らのことを、彼らと過ごした日々のことを、片付けるのでも、仕舞い込むのでもなく、「よいしょっ」という掛け声と共に、ずっと背負って行くのでしょう。そうやってこの先の新しい人生を、生きていくだろうことが、わかっていました。

 

(2006年9月30日のmixi日記より、一部変更を加えたうえで転載)