百年、再生の我無し

40歳からの人生やり直し。

となりのレイシスト(書評:安田浩一「ネットと愛国」)

本書は、「在日特権を許さない市民の会」(略して在特会)の実情と、彼らが「台頭」してきた背景を、おもにその構成員への取材によって明らかにしたノンフィクションである。

ネットと愛国 在特会の「闇」を追いかけて (g2book)

ネットと愛国 在特会の「闇」を追いかけて (g2book)


在特会については、すでに知っている人も多いだろう。在日韓国人、朝鮮人の排除を目的として各地でデモを繰り広げ、ときには刑事事件を引き起こすこともある、今ではいわゆる「ネット右翼」の代表格となった集団だ。
彼らのユニークさは、デモにおいて「朝鮮人を殺せ!」「ゴキブリ朝鮮人を叩き出せ!」などといった過激な言辞を弄するところだけでなく、インターネットという媒体を徹底的に活用しているところにもある。
たとえば、会員の多くをネット経由でリクルートしているだけでなく、各地のデモの様子の録画を、「ニコニコ動画」や「USTREAM」に投稿することで、自分たちの活動の広報、宣伝も行っている。「ネット右翼」の代表格とされる所以である。

私が「在特会」のことをはじめて知ったのは、「カルデロン一家追放デモ」のときだった。
(参照:http://d.hatena.ne.jp/fut573/20090413/1239596568

確かに、カルデロン・ノリコさんの両親は不法入国者には違いない。
そうには違いないのだが、既に処分が決着している事柄を蒸し返し、たった3人の、反論も反撃もできない(する術がない)人間(しかもうち一人は中学生の女の子)を、徒党を組んで取り囲み、論理も何もあったものではない主張をして、残されたわずかな日々を平穏に過ごすことすら妨げる―――こんな行為はどう理屈をつけても正当性などないし、こんなことをする在特会という連中は人間の屑だ、と思った。
今でもその気持ちに変わりは無い。


その「予備知識」を持ったうえで、本書を読むと、ある種独特の複雑な気分にさせられる。
上記のような非道を行う輩は、いったいどんな異常者、犬畜生なのだろうと普通は思うだろう。ところが、著者が在特会の構成員の一人一人と会って話すと、拍子抜けするくらい普通の人間ばかりだというのだ。
なかには、日本人とイラン人のハーフの青年(そのことから彼は「ダルビッシュ」とあだ名されていた)や、あろうことか父方の祖父が韓国籍だった(後に日本に帰化)青年までもいる。後者のほうは、徳島県教組の職員に暴行を加えたかどで懲役8か月の刑を言い渡されたが、その一方で、東日本大震災があったとき真っ先に安否確認の電話を著者にかけてきた、というエピソードの持ち主でもある(141ページ)。それも著者が、在特会に好意的でない論調で記事を書いていることを知っているにもかかわらず、である。
もちろん、在特会にも著者に対し攻撃的な振舞いを見せる会員は多い。
ただ、その一方で、在特会の北海道支部長のように「どうか批判も自由に書いてください。私たちの主張を聞いてくれるだけでも嬉しく思います。ただし、デタラメを書かれたら、私はしっかり抗議します。(81ページ)」といった、誠に公明正大、正々堂々たる態度の持ち主もいる。

デモでの彼らの振舞いをみれば、凶悪なレイシスト(人種、民族差別主義者)以外の何者でもないのだが、ひとりひとりをみればごく常識的な、ときには人並み以上に正義感に強く、情誼に厚い人間でもある。
そんな人間が「朝鮮人を殺せ!」などと騒ぎ立てる―――著者は本書を通じてしばしば「落ち着かない気分になる」という旨のことを書いているが、まさに著者ならずとも、落ち着かない気分になるだろう、一体何が彼らをそうさせるのか、と。


もちろん、著者は一連の在特会の主張には全く賛同していない。在特会の主張の柱である「在日特権在日韓国人、朝鮮人が他の外国人はもちろん、一般の日本人と比較しても不当に優遇されている、とする在特会の主張)」については、本書の第5章「『在日特権』の正体」で「まったくのデマ、神話の類」と断定している。
その一方で、ひとりひとりの構成員については、彼らの主張の内容は批判しつつも、そういう主張をしてしまう彼らの心情については、できる限り寄り添おうと努めていることが本書を一読すればよくわかる。
もしかすると、レイシスト、レイシズムを憎む人からすれば、著者のこのような態度は「なまぬるい」と映るかもしれないが、私はそれは著者の誠実さの故だと思った。


では何が、そうした「普通の人間」をレイシズムに駆り立てるのだろうか。


「我々は一種の階級闘争を闘っているんですよ。我々の主張は特権批判であり、そしてエリート批判なんです。」

(中略)

「だいたい、左翼なんて、みんな社会のエリートじゃないですか。かつての全共闘運動だって、エリートの運動にすぎませんよ。あの時代、大学生ってだけで特権階級ですよ。差別だの何だのと我々に突っかかってくる労働組合なんかも十分にエリート。あんなに恵まれてる人たちはいない。そして言うまでもなくマスコミもね。そんなエリートたちが在日を庇護してきた。だから彼らは在日特権には目もくれない。」
ここで「階級闘争」なる言葉が飛び出してくるとは予想もしなかったが、言わんとすることはわかる。つまり彼らは自らが社会のメインストリームにいないことを自覚しているのだ。自分たちを非エリートと位置づけることで、特権者たる者たちへの復讐を試みているようにも思える。
(56ページ)


彼らを過激な言動へと駆り立てているものの中核は、だいたいここに記されているように思う。客観的なレベルではともかく、主観的なレベルでは、まさに彼らは「階級闘争」を闘っているのだ。
在特会の代表である桜井誠(本名・高田誠)自身の半生が、まさに前述の「非エリート」のそれである。母子家庭に育ち、体も丈夫ではなく、高校時代の同級生に聞いても、その実在すらさだかでないほど影の薄い存在だった。高校卒業後地元でバイト生活をするも、やがて上京し、東京の下町の家賃3万5千円のアパートを借り、警備員の仕事に就いた…

そうした境遇の桜井が、ネット右翼のカリスマとまで呼ばれるようになったのは、彼と境遇、社会的な位置を同じくする多くの人々の鬱屈、怒りに対して表現の道筋を与えたからだということを著者は暗示する。


「社会への憤りを抱えた者。不平等に怒る者。劣等感に苦しむ者。仲間を欲している者。逃げ場所を求める者。帰る場所が見つからない者―――。
そうした人々を、在特会は誘蛾灯のように引き寄せる。いや、ある意味では「救って」きた側面もあるのではないかと私は思うのだ。
(355ページ)


さらに著者は、在特会のことを異常な、特殊な集団とはとらえていない。構成員ひとりひとりの「普通さ」加減を逐一紹介していることからもわかるように、程度の差こそあれ、我々も在特会のようになり得る可能性をも示している。

第8章「広がる標的」の中で、在特会主催ではないが、排外的な色彩を帯びているデモとして「反フジテレビデモ」についても書いている。フジテレビが韓流ドラマ、K-POPスターに偏重しているとして、それについての抗議を目的としたデモだ。これについては、在特会のデモよりもずっと自然発生的で素人くさく、ずっとやわらかい感じではあるものの、それでも漂う「気分」は在特会のそれと同じものがあるという。


なにかを「奪われた」と感じる人々の憤りは、まだ治まっていない。静かに、そしてじわじわと、ナショナルな「気分」が広がっていく。それは必ずしも保守や右翼と呼ばれるものではない。日常生活の中で感じる不安や不満が、行き場所を探してたどり着いた地平が、たまたま愛国という名の戦場であっただけだ。

(中略)

その怒りの先頭を走るのが在特会だとすれば、その下に張り巡らされた広大な地下茎こそが、その「気分」ではないのか。
(313ページ)


本書の射程は、単にネット右翼、排外運動ということだけにとどまらない。およそ現代日本の社会について関心を持つすべての人が一読すべき書であると、そう断言できる。