百年、再生の我無し

40歳からの人生やり直し。

我々に罰する資格はない。

(以下の文章は、2007年8月に愛知県名古屋市内で発生した「闇サイト殺人事件」がまだ審理中であったときに書かれたものである。
この事件の被告人3人については、すでに全員判決が確定している。しかし、ここでふれた問題は今なお意義を失っていないと思うので、初出の文章から一部変更を加えたうえで転載する。)

 

 

<愛知女性殺害>死刑求める署名10万人 名地裁へ提出へ
10月3日15時4分配信 毎日新聞

 名古屋市千種区で今年8月、派遣社員、磯谷利恵さん(31)が携帯電話のサイトで互いを知り合った男3人に拉致され、殺害された事件で、強盗殺人などの疑いで逮捕された男3人への死刑を求める署名が10万人を超えたことが3日、分かった。遺族はさらに協力を呼び掛けた上、署名簿を名古屋地裁に提出する。

 

複雑な気分である。

この犯人の極悪非道さについては異論はない。
けれども、「犯人を極刑に処するための署名運動」というのは話がまた別だ。
遺族の方々の苦衷は察するにあまりあるが、少なくとも私はこの署名運動には賛同できないし、仮に署名を求められても断るだろう。

理由は二つある。


一つめ。
仮に、もしこの後、この事件の犯人の死刑判決が確定したら、と考えてみる。
仮にその判断が、この署名運動とは全くかかわりのないところでされたとしても(というか、それが当然なのだが)、素人の見た目からはそんなことはわからない。「この署名運動が功を奏したのだ」と映ることだろう。
そうすると、「誰かを死刑にしたいと思う」人間がいて、その人間がある程度多くの人の賛同を得られさえすれば、誰かを死刑にできてしまう(というふうに見えてしまう)、という悪しき「前例」ができてしまう。
はっきり言って、それはとても醜いし、危険なことだ、と私は思うからである。

なぜそう思うのか。
数の力、即ち多数がそれを支持している、賛成している、ということが決定的に重要な分野がある。「政治」がそれにあたる。極言すれば、政治の世界において「何が真実か」ということはあまり重要視されない。多数が信じていることが即ち真実だからである。
一方、どれだけ多数が信じていようと、それだけでは真実性を担保しない(させてはならない)分野というものもある。「司法」とか「学問」などがそれにあたる。
「署名運動」という数の力で刑事被告人の量刑を左右しようというのは、「司法」というゲームにおいて、それとは全く異質の「政治」というゲームのルールを強引に適用しよう、させようという試みに他ならない。
それはやはりおかしいのだ。碁盤に将棋の駒を並べてゲームが成立するだろうか。サッカーのボールを突然手に持って走り出したら、それはサッカーの試合ではない。
それと同じことである。

話はややずれるが、「三権分立」というのは歴史の教訓から人類が編み出した知恵の一つだと私は思う。つまり選挙で選ばれる立法、行政府の人々だけだと、「多数決という名の専制」に陥る危険が常にあるから、それとは異質の司法というルールの世界を別に設けることでバランスをとっているのだと。


二つめ。
この「署名運動」は、遺族のこの事件の犯人に対する「復讐」といってよいだろう。「復讐」という言葉は使ってはいないものの。
だとすると、私にはこの復讐に加担する資格はない。そう思うからだ。

「加担する資格はない」というのは奇妙な表現だと思われるだろう。こういう言い方をした背景を説明するために、しばし回り道をお許し願いたい。

これは前にどこかで述べたこともあるのだが、私は復讐心を露わにしている人を見るのが好きではない。
最近になってから特に、殺人事件における遺族の人々が「犯人には極刑を望む」という旨の発言をし、かつそれがメディアにとりあげられることが多くなったような気がする。
「極刑を望む」というのは、要は「あいつを殺せ、吊るせ」と言っているのと結局は同じことなのだ。いくら「遺族の発言」というエクスキューズは用意されていても、そしてその犯人がどれほど憎むべき罪を犯していても、その手の発言を目にするのは正直、私はいい気分がしない。
とはいえ、やめろ、とも言えない。遺族の方々にとって「犯人を殺せるものなら殺してやりたい」と思うのは人情として当然の感情だからである。
だから、上記の署名運動にしても、私は決して賛同しないが、「そんなこと止めるべきだ」と主張することもしない。何の被害も負っていない私に、どうして止めろなどといえるだろうか。

私が先に「復讐心を露わにしている人を見るのが嫌だ」と書いたのにはもう一つの理由がある。
復讐心を露わにしている人の多くは、「復讐」というものを糧にして自分を奮い立たせない限り、自我を保つことができないくらいに追い詰められている人々だからだ。
そういう人々を目の当たりにするのは正直、辛い。どんなに哀れだと思っても、私はその人々には何もしてあげられない、かける言葉すら見つからないからである。

かといって、ここで「何もしてあげられない」苦しさを紛らわすために、遺族の復讐心に「悪乗り」する形で厳罰を主張するのはもっと愚かしいことだと私は思う。
先の記事を引用して「遺族の気持ちを思えば、ここは死刑しかないだろ」という旨の発言をしているブログがいくつかあった。私はこうした発言の傲慢さに目がくらむ思いである。よくそんなことが言えたものだ。平和にのうのうと生きている我々が、この上ない理不尽さで愛する人々の命を奪われた人々の気持ちを、安易に「わかる」などといってよいものだろうか、と。
「わかる」わけがない。「わかる」などとぬけぬけといえる人間は、被害者の立場を僭称して、何か別の感情を満足させようとしている、実は単なる無責任な野次馬に過ぎない。
それはとても危険で、愚かなことであるということに、人はいいかげん気付くべきなのだ。

「加担する資格はない」と先に書いたのは、そういう意味である。

 

(2007年10月08日のmixi日記より、一部変更を加えたうえで転載)