百年、再生の我無し

40歳からの人生やり直し。

もはや笑うことはできない(書評:渋谷直角「奥田民生になりたいボーイ 出会う男すべて狂わせるガール」)

家の掃除をしていた時、自分が昔使っていたノートが見つかる、ということがある。そこにはいかにも若書きの生硬な文章とか詩とかイラストとかが書いてあって、赤面しつつそっと元の場所に戻す、ということがあると思う。
渋谷直角「カフェでよくかかっているJ-POPのボサノヴァカバーを歌う女の一生」は、いわばその類のノートを盗み見た誰かが、横からそれを朗読してみせるような、喩えて言えばそういうマンガだった。まともな神経をもつ人間なら「やめてくれ!」と叫びたくなるだろう。(そうならない人は幸福だろう、いや、まじめに)
これが「このマンガが酷い! 」の2013年の第一位に輝いたのは故のないことではない。

そして「奥田民生になりたいボーイ 出会う男すべて狂わせるガール」は、その渋谷直角のいわば「メジャーデビュー第2作」である。

 

奥田民生になりたいボーイ 出会う男すべて狂わせるガール
 

 

いわゆる「サブカル界隈」にいる人々の自意識とその浅ましさを嗤ってみせる、というその姿勢は前作の「ボサノヴァカバーを歌う~」と変わりはない。

しかし、前作でならまだ辛うじて「あー、こういうヤツいたよねー、若いってのはしょうがないねー」と余裕をかますことのできたその余裕は、本作を読んだ後においてはもはや、ない。
正直いって笑えない。もちろん、面白くないからではない、あまりに身につまされ過ぎて、もはや笑う事が出来ないからである。

本作の主人公のコーロキは35歳の編集者、15歳のときに奥田民生を知って以来、奥田民生を人生の師と仰いでいる。ライフスタイル雑誌「マレ」の編集部に異動になったが、同僚たちがあまりにオシャレすぎてついていけない自分を感じている。
そんな中、コーロキは、取引先のアパレル企業の広報担当である天海あかりに一目ぼれしてしまう。なんだかんだあって、首尾よくコーロキとあかりは付き合うことになり、コーロキは「オシャレライフスタイル雑誌の敏腕編集者と、アパレルの美人プレスのカップル」を夢見る、のだが……

いわゆる「サークラ」という言葉がある。バンドとか劇団とか趣味のサークルとかで、割と仲良くやっていたのが、それなりに美人の女の子が現れた途端、メンバーがその女の子の歓心をかう事だけに腐心してしまい、しまいにはサークルそのものを崩壊に追い込んでしまう、という人物または現象を表している。
本作も、その「サークラ」モノだと分類してもいいのかもしれない。が、それだけに納まらないものをやはり私は感じる。

本作のタイトルにもあるし、また、作者自身が好きでもあるのだろう、一回一回の最初に奥田民生についての蘊蓄が語られる。私は、最初のうちは、このウンチクを「うるさいな」と感じていた。何のためにこのウンチクが挟まれるのかよくわからない、とすら思っていた。
ただ、読み進むにつれて考えが変わった。むしろこのウンチクは必要なのだ。コーロキは奥田民生に私淑し、まさにタイトルの通り、奥田民生のような「力まないカッコいい大人」になりたい、と願っている。ところが、回を重ねれば重ねるほど、奥田民生との距離はむしろ遠ざかっていく。力まないどころか眼を血走らせて必死になるばかり、しかも、我々読者からすればその必死さは滑稽を通り越して鬼気すら感じられる、そのことが、回の最初に挟まるウンチクで、否応なしに見せつけられるのである。
そして、ラストから二ページめの表情。いろんなマンガで描かれた表情の中で(自分が見た限りで、という限定付きではあるが)、「切なさ」という点では指折りである。
この表情は「自分が何十年もかけて求め続けてきたものは、もはや決して得ることはできない」ことに気づかされた男の表情である。

そして、最後は「『 カフェでよくかかっているJ-POPのボサノヴァカバーを歌う女の一生』に続く」と書かれて、締められる。

もちろん、同じ作者の前作だから、というだけの意味ではない。これはこう書かざるを得ない意味があるので(それは読めばわかる)、だから、本作を読んでまだ前作の「ボサノヴァカバーを歌う~」を読んでいない人は、是非読んでほしい。2作続けて読めば、「ラストから二ページめの表情」がより切なさ、物悲しさを増すことは間違いない。