百年、再生の我無し

40歳からの人生やり直し。

亡国の民に幸福はあり得るか(書評:古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち」)

ちょうど2年前に出て、話題になった本である。内容の概略や感想は様々な媒体ででていたので、なんとなくは知っていたが、今に至るまできちんと読んではいなかった。もともと「いま話題の」という言葉がつくとそれだけで拒否反応を示してしまう偏屈者なので、話題になった時点ではあまり読む気が起らなかった。

著者の古市氏については、エッセイとか、インタビュー記事とか、対談とかでその言葉にふれる機会が何度かあった。その度に思ったのは「言ってることは正しいとは思うが、何故かしら苛立ちを覚える」ということだった。ただ、その理由を明確に言語化できない以上、批判は差し控えるべきだとも思った。「何か知らないけどあいつムカつく」では話にならないから。

今、この本を初めて読んで、その苛立ちの根源がようやくわかった、ような気がした。

絶望の国の幸福な若者たち

絶望の国の幸福な若者たち

 

 

本書の中心仮説は「現代の若者は自分たちのことを『幸せ』だと感じている」ということだ。

就職難、格差の拡大、増加する非正規雇用、ワーキングプア…これらの問題の故に、今の若者は「かわいそう」と外からはみなされることが多い。にもかかわらず、当事者である若者たちの多くは、今の生活に満足している。その割合は過去のどの世代が若者だった時期よりも高い。それはデータによって裏づけられている。

おそらく、この結果には「意外」と感じる人が多いはずだ。

 

では、何故そのような現象が起きるのだろうか。人はどんな時に「自分は不幸だ」と思うのかというと、「今は不幸だが、将来はより幸せになれる」という希望がある時だ、という。逆にいうと、もはや将来に希望がいだけないときは、「今は幸福だ」と答えるしかない。つまり、今の生活に対する満足度の高さは、将来に対する希望の低さと一対の関係にある。

また、この現象は「コンサマトリー化」という別の観点からも説明が可能だ、という。コンサマトリーというのは「自己充足的」という意味だ。何らかの大きな、または未来の目的のために生きるより、「今、ここ」に生きる、身近な仲間たちとのささやかな幸福を大事にする、という姿勢が広まることを「コンサマトリー化」と呼んでいるわけである。これも「大きな目的、未来に生きることがもはやかなえられないので、仕方なく」というニュアンスをあらかじめ帯びている。

 

ただ、そうはいっても、人間というのは、「今、ここ」だけになかなか飽き足らない。どうしても空間的、時間的により大きなつながりを求めてしまう。その表れが、たとえばサッカーワールドカップへの熱狂であり、社会貢献への関心であり、もう少しアクティブになれば保守系運動への、あるいは震災復興ボランティアへの、あるいは反原発デモへの参加、という形をとることもある。

 

ここで特筆すべきなのは、「より大きなつながり」を求める人間にとっての、ナショナリズムというものが果たす役割である。著者はナショナリズムを「魔法」「ここ数百年の中で人類が発明した最大の仕掛けの一つ」と呼ぶ。これがあるがゆえに、血縁も地縁も全くないもの同士が、同じ国の民(たとえば、日本人)としてひとつの「想像の共同体」の一員としてつながることができる。これがあるからこそ、親類縁者でもなければ面識もない日本代表チームの選手の活躍に熱狂することができる。

 

 

―――ここまでの現状認識、および説明は、おそらく正しいだろう。ここまでなら、私にも異論はない。

私が引っかかるのは、この後の、ナショナリズムへの評価をめぐる話である。

著者は、ナショナリズムの意義をある程度のところまで認めつつも、究極的にはかなり批判的な結論を出す。

ナショナリズムが生まれたがゆえに、それまでは王と王の傭兵だけで戦われた戦争が、国民全体を巻き込む総力戦と化し、それまでとは桁違いの犠牲を生む。 

 

これはナショナリズムという魔法の、最大の欠点だ。致命的な欠陥だ。

(中略)

だったら、もういっそそんな魔法は消えてしまってもいいんじゃないか。

もちろん、日本という国家は消えないだろう。少なくともインフラ供給源としては残り続けるだろう。それは結果的に、暴力の独占と徴税機能という国民国家の役割を引き継ぐことになる。

だけど、ワールドカップの時は大声で日本を応援しても、試合が終わればすぐに「お疲れ様」とさっきまでの熱狂を忘れ、アメーバニュースで「異性の気になるところ」というニュースを読んで友達と盛り上がり、戦争が起こったとしてもさっさと逃げ出すつもりでいる。そんな若者が増えているならば、それは少なくとも「態度」としては、非常に好ましいことだと僕は思う。国家間の戦争が起こる可能性が、少しでも減るという意味において。(153P)

 

 わからない。何故なら、上記のような若者が増えたとしても、戦争が起きる可能性は少しも減らないだろう、と私には思えてならないからだ。

話の一部についてはわからないでもない。これは前にもどこかで言ったことがあるが、私は、戦争からもっとも遠い人間というのは「いかなる主義主張もなく、守りたい理想もない、自分のことしか考えてない人間」だと思っている。上記のような若者像はかなりそれに近いもので、そういう若者が増えれば、戦争の可能性は減るように見えるかもしれない。

でもそれには重要な前提がある。戦争は一国だけで起こすことができない、必ず相手を必要とする。だから、自分とこだけでなく相手の国でも、できれば世界中すべての国で「戦争が起こってもさっさと逃げる」人間が多数を占めなければならない。

そうでない限り、たとえば日本だけで上記のような人間が増えたとしても、少しも戦争が起きる可能性を減らすことには結びつかない。むしろ、逆効果であろう。

 

 

ただ、実は著者は、私が上記で賢しらぶっていうようなことなど、とっくに織り込み済みなのである。

本書では若者たちの対抗暴力の放棄をさも評価するように描いたが(第三章(ブログ筆者註:先に引用した箇所))、一方でいわゆるミュンヘンの教訓、ナチス・ドイツの問題に対して、いかに武力行使以外の方策があるかを十分に示し切れていない。(266P)

 

 ところが、そのすぐ後に続く文章にはこうある。

しかし、政府が「戦争始めます」と言っても、みんなで逃げちゃえば戦争にならないと思う。もっと言えば、戦争が起こって「日本」という国が負けても、かつて「日本」だった国土に生きる人々が生き残るのなら、僕はそれでいいと思っている。

(中略)

「日本」がなくなっても、かつて「日本」だった国に生きる人々が幸せなのだとしたら、何が問題なのだろう。国家の存続よりも、国家の歴史よりも、国家の名誉よりも、大切なのは一人一人がいかに生きられるか、ということのはずである。(267~268P)

 

よくわからない。

冒頭の一文は全く理屈がつながらない。それ以降の文章も反発を感じる人が多いかもしれないが、単なる字面だけならば私には異存はない。問題は、「日本という国がなくなった上で、そこに生きる人々が幸福、という状態」がどうしてもイメージできないことだ。

これは、私の頭が固いためだけでは必ずしもないと思う。古今東西どこの歴史でも、亡国の民というのは不幸な目にあい、辛酸をなめるのが通例であって、未来の日本だけが例外になるとは考えにくいからだ。

 

何も、他国に侵略されて日本が滅びる、という極端な例をあげなくともよい。財政破綻、他国の干渉による傀儡化、政府以上に強大な暴力組織が存在する、などの理由で、政府は形だけ存在しても事実上機能していない、という場合は現代でもよくある。そういう状態で「アメーバニュースで『異性の気になるところ』というニュースを読んで友達と盛り上がり」なんていう生活ができるものなのかどうなのか。仮にそういう生活ができたとして、本当にそれは「幸福」だろうか。

 

よく考えれば、こうした問題提起は何も今に始まった話ではなく、著者の独創でもない。古来から「鼓腹撃壌」とか「帝力我に何かあらんや」とか言われる話である。だが、言うまでもなくこうした状態は純粋に理念上のものであって、現実の歴史で存在したことは一度もない。

国民国家の弊害は確かに大きい。それは事実だ。だからといって、対抗暴力の放棄がその解決になるとも思えない。むしろ、上で述べたようにより一層の事態の悪化を招く可能性が高い。

 

 

ただ、本書を読む限り著者は大変聡明な人だから、こんなことは最初から承知済なのだろう。承知した上であくまで問題提起として上記のようなことを言っているのだろう。そう思う。

だとしたら余計にたちが悪い。結局、自分では本気で信じてもいないことを他者に対して主張しているという点で、無責任だからだ。