犬死
いじめを苦にして自殺、という事件がときどきある。
もう何十年も前から問題視され続けているが、一向におさまる気配がない。
最近では、ある高校で、部活動の顧問の教師から体罰を受け続け、それを苦にして自殺した生徒もいた。これなどは「いじめを苦にして自殺」の「変種」とも言えるだろう。
これらの事件が発覚した後の世間の反応も、今では定型になってしまっている。
まず、校長や教育委員会が平謝り、それに対してワイドショーの司会者やコメンテーターが、ここぞとばかりにつるし上げる。
あるいは、最初の時点では校長や教育委員会といった「学校側」が責任を認めない、あるいは責任回避的な言動をとることもある。その場合には世間の怒りがさらに噴き上がり、結局は最初のうちに素直に謝るよりももっと重大な謝罪をせざるを得なくなってしまう。
そして、いずれの場合にせよ、自殺した子に対する感傷的な言説が、しばらく世間を飛び交うこととなる。
もう沢山だ。
これらの事件は、ある種の子どもたちに次のようなことを教えるだろう。「君が遺書の一つでも残して死ねば、数多くの偉い大人たちを跪かせることができる。そして、君は悲劇の主人公として、この世の理不尽に身をもって警鐘を鳴らした英雄として、多くの人の記憶に生き続ける」と。
ある種の子どもたちにとって、それはとても甘美な誘惑だろう。
そうした、これらの事件を受けて世間(特にマスコミ)が発する暗黙のメッセージの影響の行きついた結果が、たとえばこれ だろう。
(この事件そのものはいじめとは関係がないが、上記の「自らの死をもって世を変える」という論理の帰結である、という意味で。)
でも、そんなのは大嘘だ。
そりゃ一時的には皆大騒ぎするだろう。前非を悔いて涙にくれる人もいるかもしれない。
いっとき社会を揺るがし、政治家にも「いじめの根絶」をいうことを語らせるくらいの影響はあるかもしれない。
でも、断言してもいい。そんなのはいわば一時的な流行に過ぎない。半年もすれば皆すっかり忘れ、いつもの生活に戻るだろう。
もしかすると、事件の張本人(いじめっ子とか体罰教師とか)くらいは、刑事罰を含むなんらかの処分は受けるかもしれない。だけど、それだけだ。
そんなことでいじめはなくならない。別の学校では相変わらず誰かがいじめられるだろう。誰かが理不尽な暴力にさらされるだろう。否、同じ学校ですら、他の誰かが替りのスケープゴートになるだけのことかもしれない。
何も、変わりはしない。
いじめっ子に対して、助けの手を差し伸べてくれない冷たい社会に対して、一矢を報いたいのなら、そして、少しでも何かの影響を世に与え、世を変えたいと願うなら、何はともあれ、死んではならないのだ。
死んでしまったら何もできないのだから。
そして、残された我々は、間違っても、自殺した子どもを悲劇の主人公に祭り上げてはならない。一切の哀悼の念を注いではならない。
はっきりとこういうべきなのだ。
君たちの死は犬死だったと。
死によって何をもたらすこともない、紛うかたなき犬死だったのだと。
逆説的だが、はっきり上のように言うことこそ、彼らの死を無駄にしない唯一の方法なのだと私は思う。
もう、誰もこんな風に死んで欲しくない。