百年、再生の我無し

40歳からの人生やり直し。

文化活動と政治活動

昔、ある劇団にいた。
その時のことを書こうと思う。


ちょうど「国旗・国歌法」が制定されようか、という頃。突然、劇団の主宰者から電話がかかってきた。
まだ次の公演の稽古もはじまってないのになんだろうか、と思って電話に出たら、こんな風に語り始めた。

「あのさ、今度『国旗・国歌法』てのが成立するとか言ってるでしょ?」
「なんかそうみたいですね。」
「あれの反対署名のお願いが知り合いから来てて、署名しようと思うんだけど、君も署名しない?」

なんかなー、そういうことか、と私は内心少しうんざりした。

「いや、申し訳ないですが、それはやめておきます。」
「どうして?」
「うーん、話すと長くなりそうなんですが…要は、なんかそういう『運動』みたいなものとは、できる限り距離を取りたいと思ってるんですよ。それに、」
「それに?」
「我々は芝居やってるわけじゃないですか。」
「そうだね。」
「ちょっと大袈裟な言い方かもしれないけど、表現手段を持ってるわけですよね。」
「そうだけど。」
「せっかく表現手段があるわけだから、社会になにかもの言いたいんだったら、その手段を使うほうをまず先にしたほうがいいんじゃないですか? 署名集めとかより。」
「いや、でもさ、この法律ができたら、そんな芝居とかできなくなったり、自由にもの言えなくなったりするような、そういう社会になるかもしれないんだよ。」
「それこそ大袈裟ですよ、それは。」
「そうかなあ。」
「そうですよ。でも、万が一本当にそんなことになったら、それこそ演劇の出番なんじゃないかと思うんですよ。」
「ええ?」
「演劇とレジスタンス活動って相性いいんですよ。なんでかというと、台詞の字面の意味とは全然別の意味とかニュアンスとかを、その気になれば付け加えられるでしょう? 当局からなんか言ってきても言い逃れしやすいんです。実際のところ、すべての劇団の全公演に、いちいちエージェント送り込んで監視できるほど暇な秘密警察はありませんし。」
「うーん…」
「今(この会話がなされた当時)のローマ法王ヨハネ・パウロ2世は、あの人はポーランド出身ですけど、若いころナチスドイツ占領下のポーランドでアングラ演劇してたんですよね。当局に目をつけられないように、文字通りアングラ(地下)で活動してたんです。そういう人もいるんですよ。」

ここまで言うと、さすがに向こうもさじを投げたのだろう「わかったよ、きみには頼まないから」とか言って電話を切った。


「戦争に反対する文学者のなんたら」とかいう声明文を出しているのをみたり、あるいは高名な文学者や音楽家が、反原発デモに参加しているのを見たりすると、私は上記の、昔の自分のエピソードを思い出すのだ。
たとえて言うなら、プロ野球選手が、野球ではなく、野球ほどは得意ではない別の競技でわざわざ勝負しようとするようなものではないだろうか。そういう機会が本当にあったとしても、おそらく「お遊び」「レクリエーション」以上のものにはならないだろう。

あるいは本当に、そうした政治的な運動に参加する文化人は、じつは内心では一種のレクリエーションとして割り切っているのかもしれない。でも、そうだとすれば、こちらとしてはますますそんな活動につきあう義理はない、ということになる。

そうではないだろうか。