百年、再生の我無し

40歳からの人生やり直し。

嫌イデオロギー

昨日(7/26)の記事で、次のような一節を書いた。

なんかそういう『運動』みたいなものとは、できる限り距離を取りたいと思ってるんですよ。

よく考えたら、なぜ「運動」とは距離を取りたいと思うのか、その理由を書いてないことに気がついたので、以下、そのことについてふれたい。


といっても、やや遠回りな言い方になるが、少し辛抱して読んでいただきたい。

以前の記事で、前に勤めていた会社での組合活動について書いた。
前の会社の労組は、県の労働組合連合会に加盟していて、団交の時は労連から役員の人が来たり、何かとアドバイスなどをしてもらったり、陰に陽にずいぶんとお世話になっていた。
それはとてもありがたいことだったのだが、同時に、少し気になることもあった。
たとえば労連の大会の案内を読むと、労働活動とか貧困対策とかの話だけでなく、「反原発」とか「平和憲法を守ろう」とか、そういうことも同時に謳われていたりする。左翼系の活動にはよくありがちなのだが。

それってどうなんだ、と私は思ったのだ。
私が組合に参加していたのは、少しでも自他の社内における待遇をよくしようということが第一義だった。さらには、他の会社から虐げられている人々、貧困にあえいでいる人々と連帯できればなおいい、くらいの気持ちもあった。
でも、「原発に反対しよう」とか「憲法九条を守ろう」とか言われても困る。そういうことはとりあえず今の自分の利害や関心の外の問題だから、ちょっと態度は留保しておきたい、と思うのだ。

まだ「態度を鮮明にせよ」と迫られているのならいい。自分に選択の自由はあるからだ。
そうではなくて、「原発に反対してくれ」とか「憲法九条改正に反対してくれ」とか言われるわけだ。
労働組合の活動や、とりあえずの自分の待遇、労働環境の改善の問題と、これらの問題はどうつながっているのだろうか。それが見えないのに、ある考えに向かって誘導されるのは、少なくとも私にとってはあまり気分のいいものではない。


上記で「これらの問題はどうつながっているのだろうか」と疑問形で書いたが、実はこの疑問に対する答えは、私はある程度はわかっている。

たとえば「労働者の待遇改善」「反貧困」というカテゴリーと、「反原発」「憲法九条擁護」というカテゴリーは、ある種のイデオロギーを信奉する立場からすれば、一見無関係なようで実はつながっている問題、どれか一つのカテゴリーに対する態度を明らかにすれば、他の問題についても自動的に態度が決まる、そういう問題である、らしい。
つまり、イデオロギーがそれら無関係のように見える問題をつなげている、ということだ。

正直、これはたまらない。「あなたは労働問題、貧困問題に関心があるんだから、同時に原発にも反対するはずだし、憲法九条改正にも反対するはずだ」と決め付けられたくはない。
それぞれの個別の問題には、私は、イデオロギーではなく純粋に自分の頭で考えて結論を出したいのである。


ところが、ある種の「運動」というのはそれを許してくれない。結局、イデオロギーを背景にする集団がそれを仕切っていることが多いからだが。
左右問わず、何か個別の問題について運動している人々は、それにとどまらず他の問題についても、イデオロギーの観点から旗幟を鮮明にしていることが多い。そしてその場合、判で押したようにみんな意見が同じであることが多い。

そういうのがいい、という人もいるのだろう。自分でいちいち考える必要がない、楽だからだ。
でも、私には、それはとても窮屈な立場のように思える。
それが、私が「運動」から距離を置く最大の理由である。


うだうだと書いたが、なんとなく言いたいことは伝わるだろうか。

 

新ゴーマニズム宣言スペシャル脱正義論

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